検索エンジンの検索アルゴリズムにより世界中に散らばった無数のコンテンツを評価し、インデックスの可否を決める権限を独占するグーグル。サービスの提供主体としては当然の行為である一方で、下手をするとおおがかりな検閲のような機能を果たすことにもなりかねない。そもそも、外部からはブラックボックスで公式な回答さえもらうことが難しいのなら、まさに神のような存在とさえ言える。
力を持った者には敵わないという原理原則
そもそも世の中のルールはより強い力を持った者が決定することが可能な仕組みになっている。例えば、最も簡単な話が私達は日本の法律には逆らえない。
陰で法律に反した行為が見過ごされたとしても、公で法に反する行為が許されることは絶対にない。そして、それは国という存在が絶対的な力を持っているからであり、だからこそ秩序を保てるというのも現実である。
ところがネットの世界はそもそも世界中に繋がっているので、一国のルールはもちろんだが世界のルールが必要になる。そこでは誰もかれもが好き勝手な自己表現ができないようにある程度の規制をする必要があり、誰かがその役割を担う必要性が生じてくる。それを担っているのが今はグーグルという巨大プラットフォームというわけだ。
ところが、ルールを定めるグーグルがあまりにも力を持つようになると、サービスの利便性向上が図られる一方で、力を持つもの特有の独善というものが生じるようになる。これはあらゆる巨大企業で起こりうることである。
巨大プラットフォームという力を持ち過ぎた存在
そして、この独善的な態度・対応が特定の人々を排除する方向へ力を発揮するようになると、もはやそれは企業を越えて1つの権力とみなすことができる。つまり、ほぼ絶対に逆らえない存在という意味である。
事前に曖昧に定められた遵守事項を公表しておき、その意味を明確に理解できなかったユーザーが暗黙裡のうちに検索エンジンの低評価の対象として認識され、下手をすれば検索エンジンから削除される可能性すらあるというのはある種の排他的指向性が備わっていると言える。
他に検索エンジンが存在し、グーグルだけに依存する必要がない状況では当然のように考えられた思考が、今ではほぼ全てがグーグルを基準にして考える思考へとシフトしてしまい、それが固定しているとさえ言える。つまり検索エンジンを使用するなら「グーグルありき」ということになる。
「こんなことを書いたら評価が下がる」とか「こう書かないと検索順位が上がらないから」という理由で書きたいことも書けないユーザーが多くいる現実が健全だとは言えない。
膨大なコンテンツの中から基準を満たしたものだけをアルゴリズムに従いピックアップするという作業を人力だけに頼るというのは現実的ではないのでケチをつける気はないが、ネット上に溢れた低品質コンテンツと言われる類の記事は、もはや手を付けられないほどの宇宙ゴミレベルの問題になっているようだ。
しかし、そもそもユーザーにそれを促したのはサービス提供主体である側の人々であることに間違いない。ユーザーどこかで勝手に知識を身に付けてやり始めたのなら仕方ないが、大手プロバイダーをはじめ関連業界が団結して推奨した結果が今の現実だと言える。
そこには広告収入という膨大な利潤を生みだすサービスの仕組みが存在し、今もあらゆる局面で活躍している。
格差社会の原因の一端を担うのものとは
ゴミが増えたので不要になったゴミは消すしかないというのは、理にかなってはいるがあまりに勝手だと言わざるを得ない。儲けるだけ儲けて、勝ち組の輪に入れなかったユーザーは切り捨て御免というわけである。
巨大プラットフォームは富の再分配という言葉が生まれるきっかけとなった原因の一因を担っていると言わざるを得ない。すでに力のある企業ユーザーがグーグルを利用することで更なる利潤を追求しそれを可能にしている。つまり、すでに力のあるものが更に力を得やすい仕組みを構築してしまったのだ。
マイケル・ムーア監督のキャピタリズムという作品は、資本主義の行き過ぎた実態をドキュメンタリーで描いた作品で非常に参考になった。
金持ちとそうでない者との間には努力という言葉が馬鹿らしくなるほどの力の差が存在し、大まかに言うと99%の庶民と1%の大金持ちが、比べようのない資金力の差のもとで闘っているというのだ。
さらに、この99%の庶民の資産を全て合算した額よりも1%の大金持ちの合算のほうがはるかに多いという現実を知るとぞっとするのは私だけだろうか。もっと突き詰めれば、これは自由主義という言葉や概念の行き過ぎた結果の露骨な結果とは言えまいか。
世の中の様々な分野でスピード・効率・時短・コスパといった目先の利益を最優先する単語が乱用されている。仕事においてはもちろん、家事においてもコスパ・時短と言われるようになって久しいが、よく考えると空恐ろしい事態である。
時短を追求し心を蔑ろにした家庭で本当に幸せが築けるのだろうか。そこで育った子供たちは本当に心豊かな大人に成長できるのだろうか。
もしも下記のような言葉が見聞きできるようになったら、かなり深刻な世の中であると言わざるを得ない。
- コスパNO1の恋愛
- 時短OK手間いらずの子育て
- 効率の良い老後の過ごし方
もしも私の知らないところで上記のような表現が許される現実があるとするなら、はっきり言ってそこには人の心が介在しないと断言できる。
人が求めるニーズが仕事や作業の迅速性や効率化だったのは事実であるが、そのニーズを満たす一方で過剰なサービスを提供するスタンスはいかがなものか。もはやサービスを利用している主体であるユーザー自体がそれに気付けないほどである。
巨大な力を持った存在の責任性について少し触れてみたが、各種巨大プラットフォームを利用しているのも私たち自身である。逆に私たちの視点で考え、これからできる前向きで進歩的な行動はないだろうか?
便利なIT技術も使い方を誤れば大変なことに
私は基本的にSNSを利用しないことにしている。それは、無闇に情報を発信することで誰かを害する危険性があることを経験上知っているからだ。
以前、IT関連企業に勤めていた時、そこでは比率にして9割の業務連絡が専用のグループウェアを利用して行われいていたが、メールによる連絡で人間関係のトラブルに発展するケースが頻発していた。
SNSをはじめテキストベースで意思表示ができる媒体は、普段は怖くて言えないことを平気で文字にして送信できるという怖さがあり、この怖さに気付いていない自覚のない人が利用すると、とんでもない爆弾に変身する。
私の在籍していた職場では、そこまで悪意がないにも関わらず言葉の表現上の齟齬が原因で喧嘩に発展し業務に支障をきたす事例が多かったため、極力対面で意思表示するよう努力義務が課されるようになった。ところが、それができないからグループウェアが存在するのだろうという意見が出て堂々巡りとなった。
その職場では二度と人間関係が改善されることはなく、問題視された人達を移動させるという消極的な対応をとることで終息が図られることになったが、人としてのモラルの重要性が語られることは一度もなかった。
こういう問題は世界中で頻繁に起きていることだと思われるが、結局グループウェアにしてもSNSにしてもIT技術を崇め万能の神のように錯覚している人には向いていない。そこには利用しているのが心を持った人間であるという大前提が欠如しているからだ。
日本はモノに溢れ先進国と比べると豊かな国であるが、心は豊かではなくなった。日本に限らず韓国も中国も、アメリカもイギリスも、先進国や大国と呼ばれる国ではそろって同じことが言われている。だが面白いことに、そういう道筋を作ったのが本人であるという自覚がないのことは注目に値する。
昨今のような異常な事件が多発する世の中になってしまった背景にあるものや、まだ終わっていないがコロナのような非常事態をもたらす原因となったものは何かについて、私たちは一度深呼吸してじくり考え直す必要があるようだ。
最後に
グーグルを例にして巨大な力を持ったIT業界の危険性やそれに振り回されるべきでないことを語ったつもりですが御理解頂けたでしょうか?
趣味でブログの記事を書く機会があるため、グーグルというものの存在と影響力の大きさを無視できない立場にいるため、一般的にはこのような記事は好ましくありません。
しかし、なにも考えなくなった人間ほど無価値なものはありません。自分で考えて行動することの意味を蔑ろにし、ただ神の信託のままに生きる邪教の信者のごとく、検索エンジンを神のように崇め検索アルゴリズムにかなった記事しか書かないというのは、もはや価値創造とは呼べません。
それは価値の破壊と言っても良いでしょう。万物は絶えず変化を続けており、永遠の繁栄を誇る国家というものも存在しません。21世紀という短いスパンだけで見ても、想像を超えた事象が繰り返し起き続けており、グーグルの躍進もまた然りです。
グーグルを含むGAFAなどの巨大プラットフォームは、当面は無敵の存在であり続けることが予想されますが、人間はそれほど愚かな存在ではないことを私は期待しています。
マイクロソフトによるWINDOWS のシェアはもはや他のOSの追随を許さないものとなり、専用のソフトウェアであるOFFICEに至っては、OFFICEをスムーズに使用できることがPCスキルがあることと同義であるかのごき誤認を生じさせるに至っているのが現状です。
しかし、マイクロソフトが台頭して間もない頃、ライナス・トーバルズによって開発されたUNIX互換のオープンソースのOSであるLINUXがハンドメイドのサーバ構築の材料として一時流行りました。
もちろん、サーバでなくとも家庭にある普通のPCにインストールして使用できるのですが、OFFICEのような利便性を追求しなかった結果、互換ソフトが存在するレベルにとどまり世間に普及することはありませんでした。
しかし、情報科学の基礎から学べばWINDOWSよりもLINUXのほうが理解しやすいのは間違いありません。我々は考えなくても難しい結果を簡単に手に入れることのできるマイクロソフトのサービスにまんまんと骨抜きにされただけなのに、多くの人がその事実に気付いていません。
もはや、WINDOWSをインストールしていなければ会話が成立しない次元の世の中になってしまい、こうなると現実を変えるのは非常に難しいでしょう。実はWINDOWSだけがOSではないにも関らず。
言ってもどうしようもない現実に直面した時に、人は諦めるという選択をとるのが常です。しかし、間違っていることを間違っていると言うだけで現実が変わる可能性が生まれます。
作品名:「三十の反撃」
著者:ソン・ウォンピョン
出版:祥伝社
価格:1760円
韓国社会の矛盾に諦めずに生きる人を描いた作品として高評価を得ています。社会の矛盾に苦しみながらも自分自身を生きようと思う人をプッシュしてくれる力のある作品です。
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